三崎公園は、にかほ市(秋田県)と遊佐町の間にある標高70mの三崎山一帯です。南から不動、大師、観音の三つから三崎の名がつきました。
鳥海山噴火の溶岩で形成され、海水の浸食で切り立った崖が続きます。
海側に整備された遊歩道からは日本海を眺め散策できます。
三崎山旧街道は箱根の山より険しいといわれ、日本海側の街道随一の難所として知られました。「地獄谷」「駒泣かせ」「沓掛」などの地名が当時をしのばせてくれます。江戸時代には松尾芭蕉や伊能忠敬も通っています。
また三崎公園一帯は1868年戊辰戦争で戦闘があった古戦場でもありました。
山形県の天然記念物であるタブ林に、慈覚大師が開いたと言われる大師堂、旧道の石畳や一里塚跡、戊辰戦争の慰霊碑などがあり、自然や歴史にふれることができます。
<おくのほそ道>芭蕉が歩いた道
1689年旧暦6月15日(今の暦では7月31日)、芭蕉一行は酒田から象潟に向かう途中で吹浦に一泊しています。
前日は猛暑、15日は朝から小雨で、吹浦の手前から大雨(曾良旅日記)となったために予定を変更したようです。
残念ながら一泊した宿は不明ですが、旅の目的地の一つである象潟を目前にして心がたかぶっていたことでしょう。
酒田から吹浦に向かうとき、もし天気が良くて鳥海山を間近に仰ぎ見ていたらどんな句を詠んだでしょうか。
昔も今も、お天気だけはどうにもなりません。
翌16日、曾良旅日記に「是ヨリ難所。馬足通らず。番所手形納。大師崎共、三崎共伝。」とあります。
所在地 | 山形県飽海郡遊佐町吹浦字三崎 |
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交通 |
日本海東北自動車道「遊佐鳥海IC」から車で15分 |
駐車場 | あり(約30台) |
トイレ | あり(冬季は閉鎖します) |
・・手長足長の昔ばなし・・
むかしむかし、三崎山に「手長足長(てながあしなが)」という化け物がいました。この化け物は、手は鳥海山に届くほど、足は飛島までひとまたぎできるほど大きく、三崎山を通る旅人をつかまえては食べていました。
この化け物を退治しようと何人もの武士が出かけていきましたが、帰って来るものはほとんどいませんでした。道行く人々はおそるおそる三崎山を通りました。
三崎山の関所あたりには三本足のカラスが住んでいて、近くに手長足長がいるときは「ウヤー」と鳴き、いないときは「ムヤー」と鳴きました。旅人たちはこれを聞き分けて通るようになり、この関所を有耶無耶(うやむや)の関と呼びました。
ある時、慈覚大師(じかくだいし)というお坊さんが、手長足長の話を聞いて退治に出かけましたが捕らえられてしまったのです。しかし手長足長は大師の鋭い眼力と慈しみの心に負け、しまいには降参してしまいました。大師は数多くの五輪塔を建てて犠牲になった人々の冥福を祈りました。
手長足長は、もう決して人を食べたりしないと約束し、タブの実を食べるようになりました。こうしてカラスの鳴き声を聞き分けなくても、安心して三崎山を通ることができるようになったのです。
大師は手長足長のために、三崎山へたくさんのタブの実をまいていきました。それが、現在、三崎山にうっそうと茂るタブの木なのです。
「森の公園・遊ぽっと」には、この昔ばなしをモチーフにした遊具があります。